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脚本家は、肉が好き。

ニート。

投稿日時:2009/01/07(水) 01:51

ちょっと大まじめに書いてみよう。

今回の公演"DUST"は、
国家がニートを強制的に無人島に遺棄するという物語だ。

ニートとは、
その言葉を生んだ英国から我が国に輸入されたときに
その意味をすっかり変えてしまった。
この国ではとにかく、
働いていない成人を指すと言っても過言ではない。

彼らは何かしらの事情で仕事に就けないでいる。
就きたくても就けない、そもそも就きたくないなど
色んな分類があるのだが、
左派的な人権派がもっとも守りたくなるような社会的弱者であることが多い。

ところが左派は本来は労働者を守るイデオロギーなので、
その既得権益(正社員)を守るために、
ニート(あるいは派遣社員)すらも左派に切られてきたという歴史が短いながらもある。
新卒者が就職にあれほど有利な理由もここにある気がしてならない。


さて。
たくさんの誤解や偏見を生んできたニートであるが、
米国サブプライムローン問題から派生した昨今の不況で、
たくさんの派遣労働者が資本家に捨てられ、
大量の「ニート的な人々」が生まれつつあるのはご存じの通りだ。

そうしてここ2ヶ月ほどの間に、
ニート的な人々に対する世論が
「働かないのが悪い」から、
「政治が悪いのかも」という風に
少し変わってきた感じを受ける。

図らずも、
この時期に"DUST"を上演できることは、
何かしらの意義を感じたりもする。

前作"斜塔"は、右派的(あるいは保守的)な思考回路で書き上げた。
日本のマスコミは今でもなぜか左派が非常に強いので、
健全な右派が(あるいは保守ですら)育ちにくく、
憲法第九条や国家安全保障などについて、
真っ当な議論すらもできない風土があったからだ。

それとは逆に、
今回は題材的に少し左に寄らざるを得なかった。
あるいは人権派に、と言ってもいい。

こうして2つの正反対な作品をほぼ同時期に執筆できたことで、
僕は作家として、
ある特定のイデオロギーに偏るのではなく、
それらを俯瞰的に見て、
それぞれのいい部分、悪い部分を浮き彫りにしていくことが肝要なのだ
ということにあらためて気付かされた。

ここでいうイデオロギーは、社会のあるべき姿、という広い意味でも使っている。
もう今や右も左も関係ない、という時代だ。
要は資本主義社会において
その極限に位置する新自由主義が破綻した、というだけだ。
小泉首相が、つまりかつての日本国民が間違っていたということかもしれない。
"二極化"という言葉が流行ったのは3年前だっただろうか。


そもそも民主主義政府は、
貧しい国民や労働者を救うことによって、
共産主義革命を欲する国民を減らす、という目的を持っている。
だから社会保障がある。

しかし日本政府は、
ソ連の崩壊や中国人民の悲惨な暮らしを知るようになり、
共産主義革命が脅威ではなくなってしまった。
だから上層が下層を適当にあしらうようになったのではないか。
というのが私の今の考え方の一つだ。

また、
資本主義国家政府の最大の仕事は、経済政策だ。
つまり、景気をとにかく良くして
なるべく貧民やニートを生まない、
というのが政治の仕事なのだ。

ちなみに労働の義務は憲法に規定してある。
憲法に書いてあるということは、
我々が働かなくてはならない、という意味ではない。
国民全員が働けるようにしなければならない、
という義務を国家が担っているという規定だ。
(憲法を守らなければならないのは、公務員と天皇だけ)


ニートは、その人数が昔も今もほとんど変わっていない、
ただマスコミが(犯罪に絡めて)騒いでいるだけ、
という事実を知った時は驚いたが、
さすがにこれからは確実に人数は増えていくだろうと思われる。


ニートを無人島に捨てる、
というのはもちろんフィクションだからできることだ。
しかし、
それと似たようなことが今、
現実に起きてはいないか。


無論、民主主義は死守せねばならない。
そんな中で、我々国民に何が出来るか。
公務員に何をさせるべきなのか。


あるいは、
溢れ返る無職者を救うことで
資本家でない我々一般国民にどんな得があるのか、
を考えるのも政治だと思ったりもする。


この作品を作りながら、
そんなことを時折考えるのである。




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